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Shonen-ji's Origins

 

2004515

正念寺の起こり

時は戦国時代、その頃の九州は豊後の大友氏、肥前の竜造寺氏、薩摩の島津氏、日向都於郡伊東氏等が互いに相争い、強いもの勝ちの時代でした。

 その頃のこの高千穂地方の領主は、三田井越前の守親武という人でした。その親武公の姉で園姫(そのひめ)は、京都の公卿九条家の奉公に行っていた時、時の関白内大臣藤原(九條)植通(たねみち)公の子を宿して、高千穂に帰ってきました。三田井氏はこの姫を重臣興梠家に嫁入らせました。何しろ九條植通といえば、享禄八年から天文三年まで、内大臣や関白を勤め、藤原氏の氏の長者となった、その頃の日本最高の官職にあった人ですから、興梠家の子として大切に育てられました。生まれた子供は興呂木実種(さねたね)といいます。

 その時代、上野村と田原村の堺の玄武山に吉村式部種雄(種員)という武士が城を築いていました。実種は成長し、吉村種雄に仕え、実種の助力で玄武城を築きます。

 玄武城主吉村種雄の嫡子を吉村惣右衛門種供(たねとも)といい、興梠実種を種供の教育がかりとして、我が子種供の将来を託します。惣右衛門種供成人後、城主を譲り、自分は感ずるところあり、仏門に入り、吉村道休入道といい、信仰の道に入ります。興梠実種もまた信仰の厚い人で、今の上野村菅木に草庵を結び、釈正善と改め、正善坊といい、念仏三昧に世を送ります。

 天正六年(1587)三月二十八日に玄武城は、大友宗麟に攻められて、落城します。大友宗麟が熱心な天主教信者であり、キリスト以外には神は無く、日本の神や仏は邪宗であるという当時の旧教の考え方から、お寺やお宮を焼かせました。この時、竜泉寺の地藏様の堂に火をかけたけれども、不思議と地藏様の本尊だけは焼け残ったので、火伏せ将軍地蔵といって、今では防火の功徳の方で有名になっている。この焼け打ちで東・西臼杵郡内の社寺の宝物が焼かれています。

 そこで道休は、この戦乱で討死した、我が子種供夫妻をはじめ、一族家臣、村人たちの物故者の為に、先に入道していた正善坊と共に、その供養を行い懇ろに菩提を弔いました。それから数年後、道休の二男(種供の弟)も成長して、道休は、新たに念仏道場として「称名山正念寺」を建立します。これが正念寺の起こりである。

 先に出家した正善を初代として、道休は二代となり、種供の弟道正を三代となり、以来四百十有年を経て、今日に至る。    

玄武山正念寺第17代 釈順正

 

 

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